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子供達からの手紙

年末も近くなってきた今日この頃。書棚の整理をしていると、2006年夏に妻が入院した時、子供達が妻に宛てた手紙が出てきました。

当時は、長男が小学校2年で次男が幼稚園年中だったのですが、なんだか懐かしい。妻はこの手紙を握りしめて、手術に向かったんだっけ。

この手紙、このままだと絶対に埋もれてしまうので(実際、この手紙見るの5年ぶりだし、苦笑)、ここに僕が書き写して記録しておくことにしました。よかったら一緒に読んでみてくださいな。


----------次男(当時4歳)から母へ-----------------

おかあさん、はやくなおりますように。

(↓実際の手紙の画像)
P1020326.jpg

・・・何の絵だか、今となっては不明だけど(苦笑)・・


----------長男(当時7歳)から母へ------------------

お母さんハワイに行こう。
ぼく、がんばるから。お母さんのために。
ぼくは、山、川、いろんな場所にお母さんといっしょに。
ぼくはお母さんが大好きだから、治ってほしい。
がんばってね。
冬は雪合戦。夏は虫を捕まえたり花火をやろうね。

(↓実際の手紙の画像、↑一部漢字にしました)
P1020327.jpg


----------------------------------------------------

ではでは、今日はそんな感じです。
またお会いしましょう。
ありがとうございました。



●追伸
非常に申し訳なかったんだけど、三回忌の法要は中一の長男のテストの真っただ中でした。でも、前回よりは成績があがったみたい。ちょっとほっとした。

腹をくくった頃の話

今回も、まずこちらの注意点からお読みください。

この秋は、妻を思い出して泣くこともしばしばっあったが、闘病生活を振り返って一番泣けた日のことを書いてみる。

それは、妻の癌が再発して、検査の結果を医師から聞き
「5年生存率50%ない」と言われた時。

それまでは、きっと治るんじゃないかという楽観的な希望もあったのだが、医師の話を聞き、家でネットで調べても、妻の癌のタイプは悪性中の悪性で、非常に厳しい現実が待っていることがわかった。

唯一の希望は、妻のような癌のタイプでも、稀に長く生きている人がいるということ。

もちろん我々もそういうことを目指さなければならなかったが、でも現実は厳しいと思わざるを得なった。もしかしたら、妻は5年後、いや早ければ3年くらいで亡くなってしまうのか?

あの日、妻は入院中だったから、僕は家でそんなことを一人考え、怖くて震えた。そして結局、一晩中泣いた。泣いて泣いて明け方近くになったら、不思議なもので腹もくくった。

仮に余命5年だったら、
その5年間をより濃密に全てを彼女のために過ごそうと。

そういう腹をくくった。それが2006年夏のこと。

さて、そういう腹をくくったからには、次は行動しなければならない。

当時、僕はサラリーマンで会社に行っていたのだが、「全てを彼女のために」と言うからには、まず彼女と過ごす時間を確保しなければならない。しかし、会社に行かなければ経済的に困ってしまう。

そこで、僕は会社と交渉して会社に行かずに在宅で仕事するから、それで給料をだして欲しい、という交渉をやった。しかし、これは駄目だった。会社としては、そういう制度が無いの一点ばりだ。

まあ仕方がないよね。会社とはそういう所だし。

で、次の作戦に移った。僕はもともと、いつか独立してやろうと思っていたし、以前ベンチャーやって失敗した経歴もある(苦笑)。

だったら、この機会に独立すればいいんじゃないか?ということ。

そこで独立準備を始めた。
会社勤めの傍ら、お客さんを訪問し、自分の技術を磨き、レポートを作って売り込むみたいなことをやった。さらに佳境になってきた時は、会社を4ケ月休職して、そういうことをやった。

もちろん、それは一種の賭けでもあったのだが、不思議と
「失敗したら・・・」とかは思わなかったなあ。

気持ちとしては、「意地でもやってやる」みたいな感じだった。

人間死ぬ気になればなんでも出来るって言うけど、
文字通り「死ぬ気」になっていたんだと思う。

だって、妻の余命のこともそうだが、
会社休職したりしていたから、給料無かったし貯金も減っていったからね。
そりゃ、今から考えるとヒヤヒヤって感じがする。

関係者の皆さま、黙っていてごめんなさい。

いや、もちろん、本当に借金するくらいヒヤヒヤになったら周りに相談したと思うけど、結果的には幸いにも僕の貯金が大幅に減る段階で、この独立戦争は終わり、2008年夏に独立することができた。

そこからは予定通り、妻の闘病生活に全ての時間を投入して一緒に向き合うことができたし、国内旅行もたくさん行けたし、たくさん話すこともできた。

ただ本当に無念なのは、妻はあの時(2006年)から、3年で亡くなってしまったこと。せめて5年あったらと思う。あと2年余分にあれば、国内旅行だけでなく彼女の好きな海外だって連れていくことができたから。

今年僕は海外7ヶ国を一人で旅行したけど、実はこれは彼女が生きていたら連れて行こうと思っていた目標の延長でもある。

でも、やっぱり3年でも5年でも無念か。若すぎるよなあ。

あの腹をくくった日から4年。
今日は、そんなこと思い出して書いてみました。

遺言を残したころ

今回は、まずこちらの注意点からお読みください。

12月5日の妻の一周忌が近づくと、自然と一年前のことを思い出す。

妻は、11月16日までは「まだ生きるからね。まだがんばるからね」と言っていた。それは僕が直接聞いていた。

しかし、11月25日頃になって看護師さんに「私もう疲れた。駄目かもしれない」と言いだしていたらしい。僕の耳にその話が入ったのは、ずっと後になってからのことだが、その頃に彼女は死を覚悟したのだろうか。

そして11月27日の夜。いつもの通りベッド脇で話をしていたら、ついに彼女は僕に遺言を言い始めた。

「私、もうダメだと思うの。きっと死ぬから。でもアナタの人生はまだまだ長いでしょ。ごめんね。・・・中略・・・・健康で幸せになってね。私は凄く幸せな人生だったよ」と。

中略の部分は3時間くらいあるんだけど、子供の教育のこととか、仕事のこととか、家の中のモノの置き場所とか、彼女の遺品の整理とか、色んな暗証番号パスワード、お葬式の段取りや音楽、遺影の写真、そんな実用的な話を最初にした。

やっぱり(母として妻として)
今後の実生活が心配だったんだろうなあ。

実用的な話が終わると、どちらからともなく
「今まで楽しかったね」「うん、楽しかった」
「今までの思い出話をしようか」
ということになった。

そこで、彼女がこまめにつけていた日記をとりだし、僕が読み返した。

この時、日記っていいなあと思った。もし日記がなければ忘れていることだらけだったけど、日記のおかげで、あの時のあの状況のことを克明に思い出すことができたから。

つきあい始めた頃、、新婚の頃、子供が産まれた頃、僕が会社を辞めた頃、旅行に行ったこと・・・・etc.

2人で笑って懐かしみ、泣くことができた。
遺言を残した日は、そんな情景でした。

彼女が「幸せだった」と言ってくれたことは嬉しいですが、
でもやっぱり悔しいし無念。

もっともっと幸せになれたはずなんだからね・・・・・

10月21日。1年前入院して帰らなかった

妻との闘病生活で、忘れられない日がいくつかあるんだけど、その一つが10月21日。妻は1年前の今日入院して、そして二度と還ってくることができなかった。

入院する時、妻はもちろん戻ってくる気でいたから、自分の身のまわりを何も整理もしていかなかったし、いつも通りちょっと病院に行く感じで出ていってしまった。

そう、あまりに普通に。

でも、僕は知っていた。
妻がここに戻ってくる可能性は極めて小さい、という事実を。

だから今日は特別の日だった。

もちろん、妻にはその事実は伝えられなった。
普段通り、病院に行くしかなかった。


だから、僕にはちょっとした罪悪感がある。

彼女がもしわかっていたら、人生の締めくくりで身のまわりを整理したかったろうし、ゆっくり感傷にも浸りたかったのではないか。

きっとそうだと思う。
でも、もちろんそんなこと伝えられるわけがない。

仕方がなかった。
仕方がなかったんだけど、やっぱり少し後悔したりもする。

あまりに普通に過ぎていったあの日。
でも特別な日。

1年前は、そんな日でした。

お母さんが死んだ日の日記

今日、本棚の整理をしていたら、次男が2年生の時の日記が出てきた。
そう言えば、アイツ学校の宿題で日記を書いていたなーと思いだし、ボチボチ読んでみた。

すると、妻が亡くなった日の日記も書いてあった。こんな日も律儀に書いたのかと思い、少々切なくもなったが、読んでみるともっと切なくなった。

このまま、この日記をほったらかしておくと、必ず埋もれてどこか失くしてしまうので、ここに僕が書き写して記録しておくことにした。よかったら一緒に読んでみてくださいな。

-----------------ここから-------------------------

十二月五日
お母さんがしんだ

きょう、おかあさんがしんで、ぼくはかなしかったです。

ぼくがびょういんにいる時、
「しなないで」と言いました。

ぼくがマンガをよんでる時、ばあばが
「早くおいで」と言って、
「なんだろう」と言って、おかあさんのへやに行きました。

そして、おかあさんのところに行くと、お母さんにぼくが
「お母さん」と言ったけど、しんでしまいました。

ぼくはすごくかなしくなって、かおぜんぶなみだだらけになりました。

ぼくはお母さんがしんですごくかなしかったです。

-----------------ここまで-------------------------

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プロフィール

ジョン

Author:ジョン
1968年生まれ、男性。
1996年に結婚。
1998年長男ユータ誕生。
2002年次男ピースケ誕生。
2005年妻が乳癌発症。
2005~2009年、闘病生活。
2009年妻が38歳で他界。

東京で男3人暮らしが始まる。

大学卒業後、日本有数の大企業に就職するも、ちょっと自分の人生観と違った(?)ので2000年に退社。その後、ベンチャーや転職を繰り返す。

2008年にフリーで稼げるようになって何とか独立。後は苦労をともにした妻と人生を謳歌したい・・・・そんな夢も実現できると思っていたのに、病気だけは何ともなりませんでした。無念です。

最後の1年間は僕もフリーで時間があったし、家族一緒に色々と旅行しましたよ。幸せのひとときでした。写真は最後の沖縄旅行で妻が撮影したもの。この旅行も家族のいい思い出になりました。

さて、これからどう生きるのか?家事は?育児は?仕事は?一応、このブログに綴ってみます。どうなることやら。

では、では、いってみましょうか。

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